とある声優の卵の裏垢

タイトルのまんま

文章が書けない

 

おかしい

おかしい

文章が書けない

何もインスピレーションが浮かんでこないのだ

 

 

高校時代にTwitterを使い始めてから早8年。

当時はTwitterというツールの恐ろしさが良く分からず、利便性にばかり目を向けていて人の悪口を書いたり当時傾倒していた極端な政治思想について尤もらしいことをつぶやいたりと、今思えば枕に頭をうずめてうわぁぁぁぁと叫びたくなるような恥ずかしい使い方をしていたのだが(もちろんその黒歴史があるから今は慎重に使えるようになったのだが)、それでも毎日何かを思考し文章としてしたためていた。その9割が特定の層への批判や悪口だった。

 

女子高生の鋭敏すぎるとも言えるアンテナを張り、自分にとって気に食わないことや気に入ったことがあれば文章として形に残し、人と対話をしていた。

私は昔から根っからの文系で、言葉をこねくり回したり全然詳しくもないことに対して尤もらしく能書きを垂れることに長けていた。そこで書いた文章はフォロワーから面白いと評価され、数は少ないもののブログにも一定のファンがついていた。今の私が読んでも、文章自体は面白かったと思う。

次から次へと文章のインスピレーションが湧いてくるので、思考を言語化することのほうが大変だった。インスピレーションの源泉は日常のすべてだったので(ニュースで見聞きしたことやTwitterでバズったこと、アニメや映画などなど)枯渇することがなかった。

 

そんなことももう8年前の話。

今はインスピレーションが全然湧いてこない。何を見聞きしても、何も感じないし感じたとしてもその感情をわざわざ言語化して人に伝えようと思わなくなった。この差はなんだ。

今思えば、高校生の時はこの世のすべてを嫌悪し見下していた。許容範囲がとても狭かった。例えば同じクラスの女子が自撮りをしている時。今は本当になんとも思わないが、当時はそれが許せなかった。「自撮りなんてナルシストがやること。自分のことを普段ブスと自称しているくせに、なんで自撮りするの?気持ち悪い!」そんなことを考えていた。

客観的に観れば別に自撮りしながらブスを自称しようがナルシストだろうがなんでもいいしどうでもいいのだが、当時の私は今よりも性格が歪んでいて斜に構えて世間を眺めていたので、彼女らの矛盾した行動に牙をむきたくなったのだ。

これはほんの一例で、私が牙をむいた相手は多岐にわたる。とりわけ政治思想に傾倒していた私は、フェミニストリベラリスト、シールズ、ヴィーガンなどに対して批判を繰り返していた。彼らを憎悪し嫌悪していたので、高校時代は些細なことでとてもイライラしたし精神的にも不安定だった(これは私自身の問題であるが)。

 

ところが今は歳を重ねて大人になったからなのか、それともあらゆることを許容したほうが生きやすいということに気づいたからなのか、ダイバーシティに順応したからなのか、何にもイラつかなくなった。それどころか他人に全く興味がわかなくなった。

他人に興味を持つことはしんどい。他人に興味を抱かなければ、怒りも好意も湧かず精神を一定に保っていられる。傷つかなくて済む。実際それでとても生きやすくなったし、周りとのコミュニケーションもうまくいくようになった。

 

その代償に批判的な視座を失った。インスピレーションを失った。もうあの時のような批判的な感情は湧いてこないし、文章も書けない。

これは、人に対する批判や悪口ではない題材でおもしろいものを書けということのなのかもしれない。

 

とこんな内省をする前に、とりあえず驕っていたの続き書けよ自分