とある声優の卵の裏垢

タイトルのまんま

読書不要論、それは私たちへの救済

 

私は小さいころから本を読めと言われてこなかった。
両親に関しても、父は読書家だけど母は全く読まないし、読書家の父だって読みたければ読めば?というスタンスで強要もおすすめもしてこない。
そんな家庭で育ったので読書とは縁がなかったし、それをとがめられたこともなかった。普通にゲームをしてドラマを見て育った。
サブカルとの出会い>
しかしそれが変わったのが中学生になったばかりの時。
中学に上がりまんまと中二病を発症した私は、当時それまで触れてこなかったサブカルチャーにどっぷりとハマってしまい、アニメやロリィタなどに傾倒しその中に自分のアイデンティティを見いだしていた(アニメやロリィタが好きなことそれ自体は全く中二病ではない)。

 

ALI PROJECTとの出会い>
その中でも当時信仰に近かったのが、ALI PROJECTというミュージシャンだ。
彼らを知るには楽曲を聞いた方が早いので、彼らを知らない人はまず「亡國覚醒カタルシス」という曲を聴いてほしい。
彼らの音楽はとても個性的で、アングラでサブカルだった。歌詞も巷に流れるラブソングとは違いとても文学的かつ知的で、メロディーもクラシックからの引用だったり不協和音をあえて用いていたりと、それまで私が聞いていた音楽と何もかもが違っていて、天と地がひっくり返ったようだった。
それまで私が聞いてきた音楽が全て否定されたような気がしたし、それまでの私自身も聴いてきた音楽が間違っているような気がした。

 

サブカルを好きな私というアイデンティティ
今になって思うとそれまで聴いてきた流行りの曲やメインストリームな曲も勿論良いと思うのだが、当時アイデンティティを確立しきれていなかった私は、何かを否定することで何かを強く肯定し、それによってアイデンティティを確立しようとしていた。そのためただの趣味ではなく信仰として傾倒してしまった。
思想まで彼らの音楽に傾倒し、崇拝とすら言える姿勢で彼らのコンテンツを消費していた私は、ボーカリスト宝野アリカ氏の言動に影響を受けるようになった。
宝野アリカ氏は大の読書家であり(自身の作詞にも表れている)、それは作品だけでなくインタビューやブログなどいたるところに表れており、影響をもろに受けた私は「私も読書家にならなきゃ!」と思うようになった。

 

<東野圭吾という水先案内人>
本を読むことで人間的として深くなれると思った。本を読まなきゃだた歳を重ねただけの大人になってしまうと思った。
そんな一種の強迫観念めいた考えはアイデンティティぐらぐらの私を苛み、そう思い立った翌日から早速小説を買った。
そのときが私の初めてのちゃんとした読書体験となるのだが、その時買った小説は東野圭吾の『卒業』だった。

『卒業』は加賀恭一郎という主人公が謎を解き明かす”加賀恭一郎シリーズ”の第一作なのだが、今思うとこのチョイスが良かったと思う。

東野圭吾の作品を読んだことがある人は納得できると思うが、彼の作品の最大の特徴はその読みやすさにある。

ページ数、文字の大きさ、言い回し、語彙の選択、世界観、人物像、すべてが私の日常と乖離しておらず、すごく読みやすくすごく分かりやすい。

言い換えると読むのが簡単なのだ。老若男女誰でも読める。

当時中学1年生だった私はそれまでこれといった読書体験がなかったことから、小説なんて面白くないんでしょ?と思っていたが、『卒業』の面白さに衝撃を受け小説という存在自体を見直すことになった。この時選んでいたのが京極夏彦作品だったら、読書を早々に諦めていただろう。

読書の面白さに目覚めたのは幸いだったが、一方で私の思想の偏りはどんどんと勾配を増していった。

「もっと本を読まなきゃ!」「本を読まずは人にあらず!」と思い込み、本を読まない自分の母親やクラスメイトを見下し始めていた。

今振り返ると、幼かったとはいえよくそこまで思想を偏らせることができたなと逆に感心してしまう。おそらく自分のコンプレックスを突いてきたのが読書だったのだろう。その時の私は知性こそが全てだと思っていて、後にTwitterで自分の思想をつぶやいたときにはフォロワーから「知性偏重主義」という大変不名誉な冠までいただいてしまったくらいだ。

 

つづく